奈良旅行のレポートから、今回は唐招提寺です。
唐招提寺に興味を持ったのは「天平の甍」ではなく「氷輪」がきっかけ
奈良旅行の予習として唐招提寺の開創鑑真を描いた永井路子さんの「氷輪」を読んでいたので、唐招提寺は是非じっくり・ゆっくりと見たいと思っていました。
折しも蓮の花が美しい時期。奈良市観光協会では「奈良・西ノ京ロータスロード」なるイベントをやっていて、蓮の花が美しい薬師寺、唐招提寺、喜光寺の特別拝観・特別散華・特別御朱印帳なども用意されていました。
蓮の花は朝に咲くので、早朝から自転車でこの三寺を巡礼するのもよろしおすなぁ、と思っておりました。
しかし、諸事情から時間がなくなってしまい、上記三寺のうち唐招提寺のみを参拝(しかも午後)するにとどまってしまい、さらには不本意ながら駆け足の参拝とならざるを得なく、写真も撮れず非常に残念な気持ちでございます。
なぜ時間が無くなってしまったのかは、奈良旅行のソーカツページをご覧ください
前述した永井路子さんの「氷輪」は鑑真来日をめぐる周囲の状況や鑑真の待僧を描いたお話しです・
鑑真関連の読み物だと井上靖さんの「天平の甍」の方が有名ですね。私は読んだことはないのですが、この天平の甍は鑑真を日本に招くまでの物語のようです。
鑑真が日本にたどりつく前にスポットがあてられている「天平の甍」に対して、「氷輪」は鑑真が日本にやってきたところから主だった物語が始まります。
日本に戒律を根付かせるために鳴り物入りで日本に招かれた鑑真ですが、当時の日本では仏教は政治と近すぎました。日本で初めて戒律を行った鑑真も否応なしに政治の一コマとして扱われてしまう様子が、唐から従ってきた待僧の目を通して描かれます。
唐招提寺は最初は寺でさえなかった
「氷輪」によると、唐招提寺というのは、身もフタもない言い方をしてしまえば、お役御免と判断された鑑真にあてがわれた隠居所のようなものでした。東大寺で聖武天皇・光明皇后・孝謙天皇、そして日本の高僧たちに戒律を行った後に「もうこれで後は自分たちでできますから、ご老人はごゆるりとご隠居を」というニュアンスです。
下賜された親王の旧宅は本堂(ご本尊をまつる場所)も食堂(僧たちの起居の場所)もなく、ご本尊もいなく、「寺」の体裁を成しておらず、 さらには十分な経済的な後ろ盾もなく、それゆえか当初は「唐律招提」と名乗っていました。招提は学問所とか研究所(もちろん仏教の)といった意味合いです。
現在唐招提寺で一番有名な金堂は現存する天平時代唯一の建築物で、造営は「氷輪」の語り手となっている鑑真の弟子で唐から一緒にやってきた如宝という僧で、作中ではイラン系の碧眼の僧とされています。建立は鑑真の死後のことでした。
本堂は江戸時代の改修でちょっと優雅さが失われてしまったとか
左右の棟にシビのある軒の長い、裾の反り返った屋根が印象的な金堂ですが、実は2000年から約10年かけて行われた金堂の大修理の際の分析によると、元々の屋根はもっと低かったそうで、江戸時代の改修によって今の屋根の高さになったことが明らかになりました。
なので、創建当時の姿は屋根の雰囲気は今より軽やかで、反り返った長い軒を相まって大きな鳥が羽ばたいているような姿であっただろうと言われます。
金堂ご本尊の廬舎那仏は唐招提寺が総本山となっている律宗(戒律の研究と実践を行う宗派)の根本経典の一つ梵網経の世界観を表しています。ちなみに東大寺の大仏も毘盧遮那仏ですが、こちらは華厳経によっています。
唐招提寺データ
- 名称 唐招提寺
- ふりがな とうしょうだいじ
- 住所 奈良市五条町13-46
- 宗派 律宗総本山
- 本尊 毘盧遮那仏
- 公式サイト http://www.toshodaiji.jp/index.html
- 札所 神仏霊場巡拝の道第24番
唐招提寺パンフレット
唐招提寺の御朱印
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