大奥1巻、水野のものがたりの始まりは正徳六年(享保元年=1716年)と明記されています。この年は吉宗将軍就任の年で、赤面疱瘡が日本の業病となってから80年ほどの歳月が流れています。第1巻の終りに吉宗が「没日録」を読み、2巻以降その内容が語られていき、7巻の後半で吉宗の時代に追いつきます。


水野のエピソードは大奥第一巻に掲載されています。

第六代将軍家宣もそうですが、吉宗もまた、よしなが大奥では史実と年齢が10歳ほど若い設定になっています。そしてそのことをを祐筆の村瀬が語らせる場面が大奥7巻に出てきます。

徳川家歴代将軍の中で吉宗は平成の現代でも人気の暴れん坊で、色々なエピソードが残されています。それらは、よしなが大奥でもふんだんに取り入れられていますので、まずはそれらをご紹介します。

よしなが大奥に取り入れられた吉宗編のエピソード

  • 身長180センチ超(六尺)。遺品の太刀やわらじが大きかったのでそう思われたらしい。愛知県岡崎市の大樹寺には徳川歴代将軍の位牌が安置されていて、その高さは実際の将軍の身長と同じと言われるが、それによると身長155.5cm
  • 生母の身分が低かったので兄たちより一段低い扱いを受けた(農民の娘、諸国巡礼の娘など諸説あり。母は大女で怪力の持ち主だったらしい)
  • 青山の藩邸の前を通る大名行列を見て「いつの日かせめてあれくらいの共ぞろえをもちたいものだ」といった
  • 質素を好み、紀州藩主になっても木綿の着物を着、酒も杯数を決め、玄米に野菜料理を食べた
  • 相撲取りを投げ飛ばした
  • 鷹狩を復活させた
  • 側用人を廃止し、側用取次という役職を作り、加納久道と有馬氏倫をその役につけた
  • 漢訳洋書の輸入制限を緩和した
  • 紀州藩士による御庭番を創設した
  • 目安箱を設置した
  • 町火消し組合を創設した
  • 小石川養生所を設置した
  • 青木昆陽に飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培研究を命じた
  • 諸藩に1万石につき100石の割合で一時的に献上米を課した。代償に参勤交代の際の江戸在府期間を1年から半年に緩和する(上米の制)
  • ブス専だった(人柄重視?)「婦人は貞淑で嫉妬深くさえなければよいのだ。顔かたちなどどうでもいい」と言っていたらしい
  • 女に手が早かった
  • 一人だけ気に入った女中がいて、お中臈にしようとしたら、その女中は「幼いころから決めた許嫁がいる」と断った。その話を聞いた吉宗は結婚の祝い金を与えて暇を出した(このエピソードは家重の側室お幸の方が言っているが、これが水野の一件を指しているかどうかは不明)
  • 将軍就任からしばらくしてお庭お目見えを行い、大奥の美人を50名リストラした。美人をリストラした理由は大奥を出ても見目の良い人は色々生きていく道があるだろうから。
  • 大奥の呉服の間で針がなくなると、出てくるまで探さなければならなかった
  • 尾張吉道は食後急に喀血し悶絶したが、そばにいた医師は何も治療をしなかったので、紀伊方に暗殺されたとの風聞があった。(享年25歳)

上記のエピソードを、よしなが大奥ワールドにうまく適合させて組み直していますね。例えば洋書輸入制限を解いたり、小石川養生所を作ったりしたのは赤面疱瘡治療の為であったり、町火消の設立はブラブラしている男たちに仕事を与えるためだったり。
ただ一つ、これはうっかりじゃないかと思うところを発見してしまいました。
それは吉宗の長姉綱教についてです。史実では綱教は父光貞の隠居により紀州徳川家藩主になった7年後に死亡しています。そしてよしなが大奥では同じく母の譲りを受けて2年後に死亡(よしなが大奥では久道による暗殺)していますが、一か所だけ気になる箇所があります。第6巻で綱教が死亡したとき「紀州徳川家三代藩主の座についてわずか七年」のト書きがあるのです。間違っちゃったのでしょうか?

吉宗編、よしなが大奥独自設定

  • よしなが大奥では、10歳の吉宗が時の将軍綱吉に拝謁した際(この拝謁時期も史実よりはずっと遅い時期)に領地を賜り、同時に吉の字をもらって吉宗となったとしているが、史実はもう少し段階を踏んでいて、吉宗と名をあらためたのは紀州藩主になったとき。
  • よしなが大奥で吉宗は正室を娶らなかった設定になっているが、史実では紀州藩主になった翌年宮家から正室を迎えている。その正室は紀州時代に死去し、以後後添えはもらわなかった。
  • 史実では長男(後の家重)、二男(のちの田安宗武)は紀州時代に生まれている。ちなみに長男の生母お須磨の方は紀州藩士の娘とも女中だったとも言われている。宗武の母も同様。

よしながふみ大奥年表吉宗編

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その他のよしながふみ作「大奥」についての考察