よしなが大奥のフィクションとノンフィクション=人痘・牛痘・熊痘=

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よしながふみ作「大奥」は12巻が発売され、赤面疱瘡問題はついに結末をみましたね(それともこれからどんでん返しがあるのか?)。この赤面疱瘡こそが男女逆転大奥の原因で、よしなが大奥最大のフィクションです。

ただし赤面疱瘡自体はフィクションですが、その治療法・予防法を模索していく中で青沼チームが参考にしたのは赤面疱瘡に一番近い天然痘についてです。その中に登場する天然痘に関する資料は史実のエピソードを使っています。

天然痘の宴について

まだ家治の時代、青沼部屋のメンバーが洋書の中の「天然痘の宴」という記述を見つけるくだりがあります。これは作品に出ている通り駐トルコ英国大使夫人のメアリー・ワートリー・モンターギュが家族や友人等に宛てた書簡集(トルコ書簡集)の一部です。このメアリー・ワートリー・モンターギュは実在の人物で、家柄・美貌・知性三拍子そろったロンドン社交界の華で作家でもあったそうです。

後年、メアリーはトルコに人痘を紹介した人物として知られますが、そこには毀誉褒貶色々あったようです。

彼女について、ある大学生の卒業論文がネットに掲載されています。そして論文の添付資料としてこの書簡集の日本語訳も掲載されています。その中から人痘について引用します。

サラ・チスウェル様
1717 年4月1日 アドリアノープルにて
あなたが聞いたというひどい天然痘の噂ですが、実際はそれほどではありま
せん。(中略)

私たちにとっては、致命的な天然痘は、ここではあるものを接種することが発明されて、すっかり無害となっているのです。
この接種をするのは、それを職業としている、老婦人たちの集団です。秋になり、だいたい9月くらいになって気温も下がると、人々はあちこち家で、天然痘の接種をしたい人がいないかどうか、お互いに話をするようになります。人々はその目的で集まりを開き、(だいたい15人から16人くらいの人数になります。)そこに件の老婦人たちが、最良の種痘の種が入った小さな貝殻を持ってやって来ます。そうして、どの血管に、接種をしたいかと尋ねます。老婦人は、すぐに長い針でその血管を切り開き(これは、ちょっとしたかすり傷と同じくらいの痛みしかありません。)
次に、その傷を、持ってきた貝殻のかけらで押さえるのです。こうして4つか5つの血管を開け、接種します。(中略)

その日は、子供や若い患者たちは、皆一緒に1日を過ごします。そして、8日目までは、だいたい皆元気なのです。それから熱が上がり始め、だいたいの場合2日くらい寝込むことになります。3日も寝込む人はまれです。できものは、20 や 30 もできることもなく、もちろん跡も残りません。その後8日で、皆接種の前と同じように、また健康に戻れるのです。傷をつけられたところには、熱が上がっている間だけ、痛みがあります。

毎年、この接種を受けるのは何千人にものぼります。フランス大使夫人が面白そうにおっしゃるには、ここの人たちは、皆楽しみか何かのように、天然痘にかかかっている、とのことです。なぜって、皆病気になると、いろいろな国から鉱水を取り寄せては飲むからだと言います。

もちろん、天然痘で亡くなった、という例など聞いたことがありません。ご覧のように、私も、これが安全な方法ということで、とても嬉しく思っています。ですから、私も、かわいい坊やに種痘をさせるつもりでいます。私は、愛国心から、この素晴らしい種痘法をイギリスに持ち帰って、皆にやってもらえるよう、努力をしようと考えています。

もし私が、天然痘に関心を持ち、お金だけにこだわらず世のため人のために尽くしたいという徳のあるお医者さんを知っていたら、きっと今すぐ手紙を書いて、お知らせすることでしょう。しかし、この予防接種は、お医者さんたちにとっては全く有益ではありませんから、天然痘をなくすことを引き受けた勇者には、きっと怒りが向けられると思います。もし、私は生きて帰れたなら、そうしたお医者さんたちと争ってでも、天然痘の接種を広めたい気持ちでいっぱいです。(後略)

引用元:http://www.tufs.ac.jp/common/fs/asw/tur/theses/2001/konno02.pdf

上記が添付資料となっている論文「モンターグ夫人が見た 18 世紀のオスマン帝国社会」
http://www.tufs.ac.jp/common/fs/asw/tur/theses/2001/konno01.pdf

よしなが大奥で語られている「クルミの殻」が貝殻になっていますし、「宴」という言葉が出てきません。これは翻訳の違いか、故意に変えたのかはわかりませんが、この手紙がよしなが大奥に使われているのは間違いないでしょう。

ところで、この手紙の最後の部分が、とても印象に残りました。一つの病気を無くすことは医者にとってメシの種を一つ奪われることで、きっと医者の反感を買うであろうという所、そしてそれを予想しているところが何だか切ないです。

この書簡集はトルコ滞在中の色々な見聞録や雑感など盛りだくさんで、今はまだ天然痘のところを拾い読みしただけですが、じっくり読みたい読み物です。

「天然痘の宴」に関するシーンは「大奥10巻」に掲載されています

ジェンナーの種痘について

つい数十年前まで日本でも接種が義務付けられていた種痘。昭和中期生まれの私はもちろん種痘を受けていて、右腕にその後が残っています。1974年生まれあたりが最後に種痘をした年代でしょうか?ということは現在(2015)種痘の跡があるのはオーバー40の印ということになりますな。

モンターギュ夫人の手紙から約80年後、近代免疫学の父と呼ばれるジェンナーが種痘に成功します。乳搾りの娘が天然痘にかからないのは牛痘という牛の天然痘に知らず知らずにかかっていたからだという言い伝えがあり、それに着目したジェンナーがこれを天然痘の予防に応用できないかと、人為的に牛痘を人にうつして成功しました。

ジェンナーはこの牛痘を自分の息子で実験したと言われていますがこれは間違いで、息子に行ったのは人痘らしいです。でもまずは自分の息子に行ったのは黒木と同じですね。

天然痘の宴のモンターギュ夫人にしろジェンナーにしろ、医学の進歩とか病気の克服とかの目的の第一歩はやはり自分の家族を守れるものなら病気から守りたいというまことに当たり前の人間の感情で、家族を流行り病で亡くす悲しみをこの世から少しでも減らしたいのは世の東西・時代を問わず抱く気持ちですものね。

この牛痘について、当初は「牛の病気を人に移したら牛になってしまうんじゃないか?」との風評被害もあったようです。これはよしなが大奥にもありましたね。

アジアの人痘

そもそも人痘接種のはじまりはインド(天竺)で、人痘接種が行われ始めたのは8世紀ごろだそうです(紀元前という説もあるらしい)。これが東に西に広まりました。

中国でも清の時代にまとめられた医学書「医宗金鑑」に人痘の記載があり、遅くとも16世紀ごろには行われていたそうです。それは患者のかさぶたを鼻から吸い込む方法でした。この「医宗金鑑」の人痘記載を僖助が見つけるシーンが作中にあります。

史実では医宗金鑑を見た医学者緒方春朔(なんと吉雄耕牛の弟子!)が人痘接種を試み、成功したそうです。これは1790年の出来事で、家斉治政の初期のことです。

その他にも吉宗治政の晩年中国から李仁山という医師が来日し、長崎で人痘接種をしたそうです。この李仁山の人痘接種は、青沼が「長崎でも試したことがあった」と話しているものでしょう。

よしなが大奥の人痘に関する場面は「大奥9巻」に掲載されています。

その他のよしながふみ作「大奥」についての考察

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東京在住50代、ウォーキング、御朱印集め、写真撮影と現像、70年~80年代の少女漫画(りぼん・別マ派)、中国語学習などが趣味。
遠くない将来に愛媛に移住して下宿屋と海の家を営みながら四国八十八か所巡りをしようと画策中。

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